アニソンファンとして語る宮崎駿の「風立ちぬ」ーー「風立ちぬ」は女子高生が邪神を退治する王道のファンタジーだった

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私:私が2013年夏のアニソンの最高傑作の一つと考えている宮崎駿風立ちぬ」のエンディングテーマ「ひこうき雲」について語りたいと思います。

 

妻:ちょっと待って。そもそもあれをアニソンと呼ぶべきなの? もともと松任谷由実の代表曲でJ-POPの歴史に残る名曲よね。

 

私:まだ「荒井由実」名義だった初期の名曲ですよね。松任谷由実はインタビューであの曲について「高校生のときにつくった」と言っていました。

 

妻:それは天才すぎるね……。しかし、過去の名曲を持ってきただけで、アニソンとして評価するというのはいかがなものかと思うね。

 

私:いや、「風立ちぬ」という映画は、あの「ひこうき雲」という歌こそが中心の作品ですからね。

 

妻:あれが中心なんだ。

 

私:そうです。むしろそういう見方をすることによってこそ、初めて「風立ちぬ」という映画は何だったのかということが理解出来るんじゃないかと思うんですよ。

 

妻:なんだか大げさにいうね。

 

私:そういう意味で、あれは紛れもなく新たなアニメソングの可能性を示した現代的な作品だというのが、私が「風立ちぬ」について考え続けて至った結論なんですが、まあ、それはひとまず置いといて……。

そもそも、「風立ちぬ」の映画としての感想はいかがでしたか?

 

妻:昭和男性の願望の世界よね。「男は仕事」みたいな。

 

私:そうですね。あの映画には、そういう理想の価値観の押し付けがましさみたいなものが溢れていますよね。

 

妻:「創造的人生の期限は10年だ」とか、クリエーターとしての教訓を述べちゃったりするわけよね。

 

私:ですです。私はそれを心の中で「宮崎駿松本零士化」と呼んでいます。

 

妻:例えがよく分からないけど…。

 

私:人間誰しもが成功し、年をとると、一定の説教臭くなる傾向というのがあると思うんですよ。それがエンターテインメントの世界であっても、偉大な人は、その偉大さ故に、凡庸な現実との狭間で説教くささを隠すことができなくなる。その程度が甚だしくて作品の創造に対してプラスに働かなくなる状態というのがあると思うんです。

 

妻:それはつまり老害化ということかな。

 

私:身も蓋もない言い方をしますね。まあ、宮崎監督作品の中で例えて言うならば、「もののけ姫」のタタリ神みたいなものかと思います。

 

妻:才能溢れる大御所が、偉大過ぎる自らと、イケてない現実社会の歪みに耐えかねて、自らがタタリ神化したということね。

 

私:松本零士先生もかつて貧乏な田舎少年のコンプレックスを描かせれば天才だったんですけどね……。

それはともかくとして、「風立ちぬ」は自らの押しとどめられない説教臭さにより、宮崎駿がタタリ神と化し、監督自らが、まさに創造的人生の期限が既に切れていることを体現するという、とてつもない教訓的作品となる可能性もあっと思うんです。

 

妻:それはそれですごいというべきよね。

 

私:そうですね。しかし、やはり宮崎監督は偉大だったんですよね。それだけの失敗作にはしなかった。

あの映画のキモは、何と言っても、あの呆気無い幕切れにあると思うんですよ。

 

妻:唐突なラストだったよね。

 

私:最高のぽっかり感でしたよね。

自らが人生をかけた飛行機は人殺しの兵器となって、たくさんの悲劇を生みながら、日本が負けるのを止めることはできなかった。奥さんとの恋愛についてはどうなったのかわからないけれど、病気の末に程なく亡くなったんだろうと。

それぞれが人生を懸けたものがどうなったかの過程を描かず、いきなり結論だけで否定してみせるんですよね。

 

妻:突き放した終わり方よね。

 

私:そうです。堀越二郎というか、それになぞらえた宮崎駿みたいな偉大な才能が、創造的人生を費やして、世界と向き合ったけれど、結局何も変えられなかったと。

そこで最後に全てを否定して、絶望の中に美しさを見出すようなものを目指したように思うんです。

 

妻:「滅びの美」みたいな感じよね。

 

私:ですね。これは、宮崎駿が説教臭さが溢れてしまった作品と凡庸な現実に対して、どうだったら納得できる結末をもたらせられるかと考えた時に、全てを否定して終わらせることにしたんだと思います。

 

妻:タタリ神と化した宮崎駿は、世界を滅ぼすことにしたということね。

 

私:そう、これはまさに悪の魔王が絶望と諦観の末に、世界を滅ぼすことに決めるパターンですよ。

否定して、ぽっかりさせて、行き場のない思いを噛み締めさせることが、彼が説教臭さを発揮したい世界に対して求めた結末だったということでもあると思うんですよ。

 

妻:まあ、そういう意味なら、けっこうベタな結論ともいえるわよね。

 

私:しかし、そんなラストに荒井由実の「ひこうきぐも」が流れるわけです。

 

妻:あの曲はあのラストに聴くと一段とすごい名曲だったね。あの作品にあわせたかのようなシンクロ率で圧倒的に歌いあげられ、ものすごく癒されて終わるのよね。

 

私:そう、なんの救いもなかったはずの結末に対して、あの曲だけで圧倒的な癒され感なんですよ。

 

妻:世界を否定したかったのに癒やされちゃったらだめじゃん。

 

私:そうなんです。あれは、世界を滅ぼすはずだったタタリ神が、高校生の荒井由実の歌に癒やされて終わる物語なんですよ。

 

妻:邪神を退治する女子高生の物語…。

 

私:まさに現代萌えアニメ的ファンタジーの王道パターンですよね。

あの映画を「宮崎駿が初めてファンタジーじゃない作品を作った」なんて人がいますが、とんでもない。あれは日本が誇る天才監督が自ら邪神と化し、女子高生の天才歌姫に癒やされて終わる王道ファンタジー作品なんですよ。

それを作品の物語の中ではなく、メタフィクショナルな構造の中で、監督が邪神、主題歌を歌う荒井由実がヒロインとして対決するというのをとんでもない完成度で実現してみせた作品だったわけです。

だから、あの歌はそんな中で、いわば「メタフィクショナルなヒロインが歌うキャラソン」として成立しているのが新たなアニソンの可能性を示してみせたという奇跡であり、あの曲がアニソンの歴史に残るべき名作だと思う理由なわけです。

 

妻:夏にふさわしい偉大な鎮魂歌だったということね。そして、鎮められたタタリ神の宮崎監督は引退を決めたと。

 

私:そうです。その引退も含めた完璧な符号が美しいですよね。王蟲の大群を鎮めたナウシカを彷彿とさせる場面ですよ。

そういう意味で宮崎監督は、まさにファンタジーを生きた巨匠として、日本のアニメ史はもちろん、アニソンの歴史にも刻まれるべき天才だと思います。

 

妻:でも、それってやっぱり、ただ単にオチをつけられなかった映画に、J-POPの名曲をあてて、なんだかもっともらしく形にしてみせただけともいえる気がするね。

 

私:最後に全てを否定してきますね。私の感想もひこうき雲ということですか。

 

妻:そんなに美しいものじゃないと思うけど…。